これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
われらは神によって勇ましく働きます。 われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。